初めてのものごと

初めてのものごとというものは、意外にはっきりと憶えているものである。例えば、初めて読んだ小説や初めて観た映画、初めての恋人や、初めての失恋…

昨日、「初めてバレンタインにチョコをもらった女の子」をFacebookで見つけて、久しぶりに連絡をした。幼稚園生のとき、お母さんに付き添われながら恥ずかしそうに星形の入れ物に入ったチョコレートを渡してくれて、ぼくも母親に促されて「ありがとう」なんて言っちゃったりしていた気がする。その日はたしか、雨が降っていた。実にどうでもいいことまで憶えている。

その女の子とは小学校を卒業したあと、別々の中学校に通って、高校でまた同じになった。けれども、なにしろ中学時代の三年間で思春期の子どもってのは、想像以上に成長するというか、まあ少しは大人になるようなところがあって、その女の子との距離感をはかりかねて(小学生の時はわりと仲良くしていた気がするのだけれど)、高校入学後に一度だけそっけなく話したっきり、全く話さないまま高校を卒業してしまった。

その後、別々の大学に進学してからは、顔を合わせることもなかったから、ほんとうに久しぶりだった。

つい先日、それこそ小学校を卒業して以来、十年ほど顔を合わせていなかった女の子に会って、そのためか、幼少期の懐かしさと酔いに任せて件の女の子に連絡してしまったわけである。そしてなにより、今思うと(つまり当時はあまり意識することなんてなかったんだけれど)、その女の子はすごくかわいらしい女の子だったなあ、なんてことをしみじみと大人(?)になった今、生意気にも感じたりして、ちょっとドキドキしながら連絡しちゃったのである。

ちなみにその女の子は、ぼくが「初めて怪我をさせてしまった女の子」でもある。突き指だった。ごめんなさい。

本を読むこと

十代の頃、本を読むことはとてつもなく素晴らしい経験だった。この世界は、自分が未だ見聞きしたことのないモノゴトで溢れかえっている—そう思った。それは、あり得べき〈いつの日か〉に対する憧憬であった。ぼくは、静かに波打ち際に佇んでいて、素足を濡らしては帰っていく波の、打ち寄せるごとに変わっていくその感触に、海の広大さを思った。そしてその広大さの中に、自らの可能性を読み取ろうとしていた。

しかし、海はあまりにも広大であった。

二十代になって、ぼくは、本を読めば読むほど実人生が色褪せていくというジレンマにとらわれた。いかに自分の人生が凡庸なものであるかということを、現実と可能性との距離のなかに見出した。打ち寄せる波の冷たさは、もうぼくを身震いさせることはなかった。誰か、ふかいふかい海の底へぼくを突き落としてくれないか—しかし、だらしなくぶら下がったぼくの腕をつかんで、服を着ていることなんかお構いなしに、海の中へと走り出してくれる者などなかった。ぼくはいつまでも、ひとり波打ち際に佇んだまま広大な海を眺めていた。やがて沈みゆく夕陽が海を赤く燃やし始めたとき、ぼくはもう自分が心の奥底から泣くことのできないことを知った。